ウクライナと日本の非核三原則とは全く別物と考えるべきである
海外で類似した原則を持っている国はまさにウクライナが該当する。ウクライナは1990年の最高会議採択で核兵器を使用せず、生産せず、保有しない非核三原則を堅持する国家となること宣言している。ウクライナは旧ソ連時代に国内に多数の核兵器を持っていたが、この原則に準じて戦術核は1992年5月までに全てロシアに撤収され、戦略核に関しては1996年6月にクチマ大統領がウクライナ領土から核弾頭完全撤去を表明している。
核兵器を「持たず」「つくらず」「持ち込ませず」の非核三原則の堅持について参院選候補者に尋ねたところ、自民党で賛成派が初めて7割を切り、同じ質問を始めた2007年以降で最低となった。岸田文雄首相は「核なき世界」をめざすとするが、ロシアのウクライナ侵攻で核の脅威が再確認されたことが党内に影響しているとみられる。
※「非核三原則」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
「持ち込ませず」のせいで難航を極める沖縄返還交渉に際して、佐藤栄作は公然と非核三原則を「余計な三原則」と批判した。アメリカ世論も「日本人は核アレルギーだ」と沖縄からの核兵器撤去について反感を示したが、最終的にニクソン大統領が「核兵器に対する日本国民の特殊な感情」に鑑みて「核抜き・本土並み」での返還を約束する。しかしこの時に大陸での有事の際に日本に核持ち込みを約束する密約が佐藤とニクソンの間で結ばれていたことが後年明らかになっている。
核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」を内容とする、核兵器に関する日本の基本政策。「国是」であるとされてきた。沖縄返還に関して在沖米軍基地の核兵器が問題となった際、当時の佐藤栄作首相が1968年(昭和43)1月の衆議院本会議で言明し、1971年11月24日には沖縄返還協定の可決に際して衆議院本会議において、この三原則を内容とする「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」が採択された。政府当局はその後も繰り返しこれを確認してきただけでなく、国会も同趣旨の決議を繰り返してきた。三原則のうち「持たず、作らず」は、日本が1976年に核不拡散条約を批准することにより、その国際法上の義務となった。したがって、とくに問題となるのは「持ち込ませず」についてであるが、これについて政府は、日米安保条約の事前協議により米軍の核兵器持ち込みを拒否するという態度をとってきた。しかし、事前協議の発議権はアメリカにあり、日本は疑わしい場合にも基地や艦船・航空機への立ち入り検査の権限をもたないことと、核兵器の所在を明らかにしないアメリカの政策とが相まって、この原則の貫徹への疑問が投げかけられている。実際、核兵器を搭載した艦船の寄港や、有事における沖縄への核の再持ち込みについて、日米間に「密約」があるという指摘が、研究者などによって繰り返されてきた。この「密約」問題については、外務省に設置された「いわゆる「密約」問題に関する有識者委員会」が2010年3月に発表した報告書において、1960年の安保改定交渉の時に、日本側は核搭載艦船の寄港は事前協議の対象ではないという米側の解釈を知りながらこれについては深追いしないという形で、「暗黙の合意」という広義の密約が存在したと結論した。また、三原則のもとで核を搭載した艦船の領海における無害通航権が認められるかどうかが問題とされてきたが、日本の領海を12海里と定めた1977年(昭和52)の領海法は、津軽海峡など五つの国際海峡についてはこの問題を回避するため、当分の間領海を3海里にとどめることとし、この規定は1996年(平成8)の「領海及び接続水域に関する法律」にも引き継がれた。このような状況の下で、非核三原則を国内法化するべきだという主張が平和運動や研究者の間に根強いがこれは実現しておらず、他方で日本がアメリカの核抑止に依存している以上は、核搭載艦船の寄港や領海通航は公式に認めて、非核三原則を「非核2.5原則」化するべきだとの考えも提示されている。
「持ち込ませず」を守るためにアメリカの原子力空母や原子力潜水艦などの寄港は常に反対運動を呼んだ。例えば佐藤栄作が非核三原則を打ち出した翌1968年に核兵器を積んでいると思われた米空母エンタープライズの佐世保入港反対運動が、従来の革新政党を批判する新左翼を中心に行われた。三派全学連が九州大学を中心に始めたデモでは多数の逮捕者を出し、デモを催涙ガスや放水で鎮圧した機動隊は市民から批判された。
また同じく長崎で被爆した和田征子事務局次長(78)は「核兵器の脅威が高まっている今だからこそ、日本が核兵器禁止条約に参加する機運を高めていくべきなのに、日本の国是である非核三原則をないがしろにするかのような動きが出るのは本当に残念だ」と述べました。
1980年代より地方自治体が非核宣言を行う事例が目だつようになり、日本非核宣言自治体協議会によれば、2010年9月の時点で全国1787の自治体のうち1504がこの種の宣言を行っているという。自治体の非核宣言は、非核三原則を施策の指針とする、非核三原則を自ら実施して自治体を非核地帯化するなど多様な内容をもつが、なかでも注目を集めたのが「神戸方式」である。これは、1975年(昭和50)に市議会が行った「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を受けて、港湾管理者としての神戸市が外国軍艦の神戸港入港については非核証明書の提出を求め、これが提出された場合に限って入港届を受理するとするもので、一定の実効性を示してきたという。このような方式を採用する努力は、その後高知県、函館市などで行われてきたが、1999年(平成11)に施行された周辺事態法が港湾業務についても国が自治体の協力を求めうるとしたことから、「神戸方式」に対する政府からの圧力が改めて強められるようになった。
一方、非核三原則のうち「持ち込ませず」については法的に禁止されてはおらず、アメリカの核の傘に守られている実態を踏まえ是非を議論すべきだなどの指摘が出されたこともあります。
佐藤首相は、核廃絶・アメリカへの核抑止力依存・核エネルギーの平和利用に非核三原則を加えた4つの核政策を「4本柱」と例えたのです。そのスタンスは、佐藤内閣以降のすべての政権が継承しました。日本では、50年以上にわたり非核三原則が守られ続けています。
まずは非核三原則とはどのようなものか、改めて押さえておきましょう。
では、非核三原則が大きく関与して起きた出来事には何があるのでしょうか。
長崎県被爆者手帳友の会の会長で外務省の「核軍縮を推進する賢人会議」のメンバーでもある朝長万左男さんはNHKの取材に対し、核兵器を共有して運用する政策をめぐる議論について「ウクライナのことだけを見て『核の共有』しかないという提案のしかたは無責任だ」と述べ、日本政府はあくまで非核三原則を堅持するべきだという考えを強調しました。
ただしウクライナが核を所有していた理由も放棄した理由も高度に政治的なものであり「ウクライナは非核化したためロシアの侵攻を招いた」というナラティブ(物語)を安易に受け入れることは適当でない。ウクライナと日本の非核三原則とは全く別物と考えるべきである。
実際には、日本政府は核を「使用する、しない」については何も言わず、ただ「持ち込まない」にして切り抜けてきたのである。しかし、「使用しないと言わない」ことが積極的に認められたのではない。唯一の被爆国として日本が核問題にどのような姿勢で臨むか、国際社会の目は厳しいが、さはさりながら日本が米国の核に依存せざるをえない状況にあることは黙認するほかないと、一種浪花節的に見ていたのである、と私は思う。日本の非核三原則は国際社会から無条件に祝福されているのではない。それを発表した佐藤首相に対してノーベル平和賞を授与したのは誤りであったとする意見が公然と出たことを忘れることはできない。